■ 血盟番号 ■ 享年 ■ 名 前 ■ 投 稿 記 事
戦闘で負傷し自決 6 23歳 ■ 柳井健次 ・柳井健次墓 - 土佐勤王党に6番目に加盟
17 ■ 中岡慎太郎 ・中岡慎太郎像 - 桂浜の坂本龍馬像と同じ本山白雲が制作
・中岡兼 - 中岡慎太郎の妻  
・坂本龍馬・中岡慎太郎之墓 【京都府】  
・中岡慎太郎寓居跡 - この店の息子が峰吉 【京都府】 
37 ■ 田所壮輔(谷島次郎) ・田所左右次 - 土佐藩の砲術家で土佐勤王党にも参加
伊藤甲之助の切腹を介錯 43 ■ 大利鼎吉 ・伊藤甲之助 - 土佐勤王党に68番目に加盟
戦闘で戦死  55 25歳 ■ 尾崎幸之進 ・尾崎幸之進邸跡 - 忠勇隊に参加し禁門の変で散る
・尾崎幸之進墓 - 土佐勤王党に55番目に加盟 
重症を負い自刀 68 21歳 ■ 伊藤甲之助 ・伊藤義強 - 子孫は勤王家としても活躍する 
・伊藤和兌 - 武市半平太や五十嵐文吉らと交わり国事に尽力  
・伊藤甲之助 - 土佐勤王党に68番目に加盟 
82 ■ 南部興夫(南部展衛) ・南部静斎 - 長男は土佐勤皇党・南部展衛
敗退し天王山で自刃 106 28歳 ■ 千屋菊次郎 ・維新の志士顕彰碑 - 和食出身の勤王の志士たち
・千屋家邸跡 - 龍馬の義弟・千屋寅之助(菅野覚兵衛)の生家跡 
・菅野覚兵衛・起美 - 妻は「お龍」さんの妹ですき、龍馬とは義理の兄弟 
132 ■ 井原応輔 ・井原應輔 - 土佐勤王党に132番目に加盟
133 ■ 浜田辰弥(田中光顕) ・田中光顕墓 - 中岡慎太郎亡き後の陸援隊を率いた一人
・中岡慎太郎像 - 桂浜の坂本龍馬像と同じ本山白雲が制作 
・お龍 - 贈正四位阪本龍馬妻龍子として眠る 【神奈川】 
・忠魂護皇基之碑 - 龍馬の名が国威発揚の為に利用された 
・田中光顕墓 - 土佐勤王党の生き残った一人で宮内大臣などを歴任 【東京都】 
・田中光顕邸跡 - 勤王屋敷跡 
・南海忠烈碑 - 土佐勤王党の功績を讃え 
・武市瑞山・富子の墓 
139 ■ 橋本鉄猪
  141   ■ 那須盛馬(片岡源馬)  ・那須盛馬 - 土佐勤王党に141番目に加盟
敗退し天王山で自刃 147 27歳 ■ 松山深蔵 ・能勢達太郎生誕地碑 - 禁門の変では敗れ天王山で自刃
163 ■ 上田宗児 ・山崎久三郎と妻・富 - 夫婦で勤王に尽くし天誅組には家財を持って応援
戦闘で負傷し自刃 172 42歳 ■ 上岡胆治 ・吉村虎太郎の銅像 
敗退し天王山で自刃 179 22歳 ■ 安東真之助 ・間崎滄浪(哲馬)邸跡 - 青蓮院宮令旨事件で投獄
  182   ■ 安岡金馬 ・安岡金馬顕彰碑 - 坂本龍馬の海援隊にも参加
・維新の志士顕彰碑 - 和食出身の勤王の志士たち   
・安岡金馬の父九代目・安岡忠郷の墓 - 庄屋職を務めよった  
184 ■ 細木核太郎
- ■ 池内蔵太 ・池内蔵太邸跡 - ワイルウェフ号で遭難
- ■ 池大六(山中敬三) ・井原應輔 - 土佐勤王党に132番目に加盟
   -       ■ 息吹周吉(石田英吉)   ・大和殉難烈士之碑 - 維新の礎・天誅組壊滅
・山崎久三郎と妻・富 - 夫婦で勤王に尽くし天誅組には家財を持って応援 
・征清凱旋記念碑 - 坂本龍馬に関わる二人の人物の名が刻まれる  
・小松孫四郎 - 撰文は坂本龍馬の盟友で海援隊士・石田英吉 
- ■ 清岡半四郎
- ■ 楠本文吉郎
- ■ 窪田真吉(真田四郎) ・窪田真吉 - 魚の行商人でありながら勤皇の志に燃え脱藩
- ■ 黒岩治部之助(黒岩直方) ・黒岩直方 - 龍馬、三条実美に面会後、一緒に下関に
    ■ 島浪間  ・島浪間義親墓 - 天誅組に参加・先祖は長宗我部一族
・島浪間義親邸跡 - 作州で盗賊と間違われ無念な最期  
・島弥四郎墓 - 島浪間の祖父 
・井原應輔 - 土佐勤王党に132番目に加盟  
- ■ 玉川壮吉
- ■ 利岡玄兵衛
戦闘で負傷し自刃 - 22歳 ■ 中平龍之助 ・維新の門 - 坂本龍馬脱藩の道
戦闘で銃弾に倒れる - 58歳 ■ 那須俊平 ・維新の門 - 坂本龍馬脱藩の道
敗退し天王山で自刃 - 23歳 ■ 能勢達太郎 ・能勢達太郎生誕地碑 - 禁門の変では敗れ天王山で自刃
- ■ 三瀬深蔵
  
      
  • 長州藩の挙兵上洛をまえに諸藩の脱藩浪士が中心なって結成された長州藩への合力部隊。
  • 前年の文久3年(1863)8月18日に起こった八月十八日の政変で京都を追放された長州は、元治元年(1864)7月の禁門の変(蛤御門の変)で会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中を戦火にする攻防戦を繰り広げたが敗退し、その後、長州は朝敵となり、第一次長州征伐へと繋がって行く。
  • この堺町御門の戦闘で多くの土佐脱藩の浪士も銃弾に倒れ、重症を負ったものは自ら自刃したり、敗退して天王山でも自刃して亡くなっている。
  • その後、長州藩は馬関戦争で四国連合艦隊(英・仏・蘭・米)に敗れ、以後、欧米列強に対する武力での「攘夷」を放棄し外国と講和したため、忠勇隊員の多くは長州藩への不満から脱走する者もあり、解散した。/li>
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