■ 血盟番号 ■ 名 前 ■ 投 稿 記 事
108  享年23歳 ■ 千屋金策 ・維新の志士顕彰碑 - 和食出身の勤王の志士たち
・千屋家邸跡 - 龍馬の義弟・千屋寅之助(菅野覚兵衛)の生家跡 
・菅野覚兵衛・起美 - 妻は「お龍」さんの妹ですき、龍馬とは義理の兄弟  
132   享年24歳   ■ 井原応輔   ・井原應輔 - 土佐勤王党に132番目に加盟
・赤土峠 - 佐川勤王五士達の「脱藩志士集合之地」碑 
-   享年23歳 ■ 島浪間   ・島浪間義親墓 - 天誅組に参加・先祖は長宗我部一族
・島浪間義親邸跡 - 作州で盗賊と間違われ無念な最期  
岡山藩 享年30歳 ■ 岡元太郎
  
      
  • 慶応元年(1865)2月尊王派の同志を募るために作州路を遊説中の岡元太郎 (岡山藩)、井原応輔 (土佐藩)、島浪間 (土佐藩)、千屋金策 (土佐藩)の勤皇の志士を大勢の土井村民がリンチにして惨殺した事件。
  • 第一次長州征伐の後、 大阪城を攻略する目的で作州路において同志を募るたびに出た四人が久米郡吉岡村の慈教院の住職の紹介状を持参して柵原町百々の造り酒屋池上文左衛門を訪れた。
  • 井原応輔、島浪間、千屋金策が文左衛門に活動資金の融資を求めるが文左衛門は3人を強請り呼ばわりし侮辱した。
  • 激怒した三人に文左衛門の妻が金銭を差し出して詫びたので事は納まったが、3人が立ち去った後文左衛門と息子輝道は自らが謝罪として金銀を渡したのにも関わらず3人を役人に対して強盗として訴えた。
  • これに対して猟銃や農具を手にした村人たちが四人の志士を強盗と見なし追い詰め、彼らの弁明に全く耳を貸さず、四人を死に追いやり、遺体を陵辱した事件である。
  • 彼らは英田郡土居の宿場の勤皇の庄屋・安東正虎宅に逃れようとしたが村民は竹槍でもって彼らを襲撃した。
  • 逃れる術もないと悟った四人は竹田神社に拝礼し、その後街道に出て松ノ木の根元で岡は切腹、井原と島は刺し違えた。
  • 井原は急所を外れ半日もがき苦しみ介錯を懇願したが、土井村の医師福田静斎以外誰も介抱する者はなかったとされる。
  • 千屋は宿場へ入り、土居村の町方総代武藤太平に対して自分たちへの誤解を晴らそうと試みたが適わず、旅宿の泉屋で遺書を認め自刃せざるを得なかった。
  • 彼らの死後、村民は鳶口で遺体を散々に切り刻み陵辱の限りを尽くし、彼らの遺骸は数日間捨て置かれた。
  • その後、遺書などにより真相が明らかにされ、世間で住民の残虐性と無慈悲さへの批判が巻き起こった。
  • 当時「西に百々の酒屋がなけりゃ、若い侍殺しゃせぬ」との俗謡が流行ったとされ、これに対し村民は塚を建てることで批判への対応を試みた。
  • [引用・参考/四ツ塚様 - Wikipedia]
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