土佐は良い国 南をうけて 薩摩おろしが そよそよと

 よさこい節に歌われている歌詞の文句は、土佐藩第13代藩主・山内豊煕の元に島津斉興の娘・候子が嫁入りした時に歌われた歌です。

 薩摩おろし」が南からやって来ると、海は荒れ狂い暴風雨を伴い大きな被害を生み出す激しいもので、今で言えば台風です。

 当時の薩摩は徳川幕府に篤姫を嫁がせ、土佐と同じように幕府側の関係でしたが、倒幕と言う時の流れの中で次第に薩長からすると討幕の妨げでしかなかったのが本音だったでしょうが、土佐藩は最後まで幕府を擁護した。

 武士や庶民はそんな情勢を見て、「薩摩おろしが そよそよと」の意味を穏やかな風と歌い、「薩長なんぞ、なんちゃーじゃない!」と言う意味にとらえ、土佐人の心意気を歌ったんだと思います。


  • はじめに土佐の名は

     土佐と言う名は、『古事記』に書かれた神話の中に登場します。

     伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)と言う二人の神さんによる国生みで生み出された二番目の島が「伊予之二名島」です。

     その島の名は、胴体が1つに顔が4つあ事から四国と言い、 その中で南に面した国を「勇敢な男を意味」する『建依別之国』(土佐)と言いいます。

  • 戦国時代から藩政期へと

     南北朝の争いから始まる豪族達の争いの果てに、土佐は長宗我部元親によって平定された土佐人達の国だった。

     しかし、関ヶ原の戦いで西軍に付いた長宗我部が敗れると、山内一豊は高知人となって行く人々を従えて入国し、明治に至るまで、長い藩政が続く。

     その藩政期の中で土佐人達は虐げられて行ったが、尊皇攘夷の名の下、彼らの怒りが一機に爆発したのが、土佐の幕末だったと思います。

  • そして

     当サイトでは長宗我部氏の時代までの人々を「土佐人」、山内氏と共に新たに入国して来た人々を「高知人」と称する。

     土佐維新街道は、 土佐人の誇りと高知人の誇りが生み出した良き土佐の自然・景観・歴史・文化等を通じて地域の魅力を発信できればと思っています。

     土佐人も高知人も、土佐に対する郷土愛は、忘れかけちゅう心の中に「おんし(お前)も、おまん(あなた)」も、みんなー持っちゅうハズじゃきに・・・。


変遷

2018年04月    伊能忠敬没後200年記念誌 「伊能忠敬 日本列島を測る 後編」 に資料調査協力。
2017年07月    blog「南国土佐へ来てみいや」 閲覧総数100万人を達成。
2014年04月    岡山大学大学院・馬場俊介教授・管理サイト HP 『近世以前の土木遺産』
2014年04月30日  高知市鏡川沿いに残る「水丁場標柱」三ヶ所の写真を提供。
2011年08月    HP 「土佐維新街道」 サイトをオープン。
2010年01月    講談社 1週間編集部 『龍馬巡礼 京都・高知・長崎--ゆかりの地を歩く』
2010年01月29日  高知編に写真が採用されました。
2009年09月    らくたび文庫 No.041 『幕末 龍馬の京都案内』 に和霊神社・龍馬桜の写真が採用されました。
2008年03月    blog 「南国土佐へ来てみいや」 をオープン。

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